東浦奈良男ー信念
 朝熊ケ岳(555m)3000回登山した東浦奈良男(伊勢市小俣町)さん。定年後、一万日連続登山を目標に地元の山(朝熊山・鼓ケ岳など)を中心に富士山なども登られていましたが、連続登山9678日で病に倒れ2011年11月6日86才で亡くなられました。
1980〜2000年代、私も何度か朝熊ケ岳でお会いしました。一見仙人のような独創的な格好で朝熊ケ岳に登っていたので誰もがご存知かと思います。
 この登山の情報がいつしか世間に広がりました。
 その決め手は、中日新聞が大きく取り扱い多くの人が知ることとなりました。その後も、登山回数の節目・節目で掲載されました。また、日本を代表する山雑誌の「山と渓谷社」にも記事が連載され、その名は全国に知れ渡り山の有名人になりました。
 恐らく、10000回達成まで「山と渓谷社」は、追い続けたと思われます。(信念本を読むとそのことが詳細に書かれていています。)
彼が亡くなられた後、2013年「信念」(吉田智彦著)が、「山と渓谷社」から出版されました。
その壮絶な生き方が、全国の登山愛好者から大反響を呼びました。
何故・何故ばかりの文章、「信念」の末尾に編集長(勝峰富雄)の回答が書かれていました
 

 編集長(勝峰富雄)のあとがき
東浦さんの登山は、アルピニズム的価値観とは離れた、小さな山登りの積み重ねである。
 ただそれを持続したこと、一日も欠かさず9738日も続けたことで、比類なき大変革に変性させた。
 日々の小さな積み重ねがとんでもないことを創りあげることを、定年後の人生を捧げて巧まずして証明明した。
 東浦さんの行為をあえて登山の観点で捉えるならば、現代的登山の使用を抑制することで人間の脆弱性を晒し、山と人との緊迫した関係性を日本国内の山岳で現出させた服部文祥さんの「リバイバル登山」に比肩する、現代登山史のエポックメイキングとなる重要な記録だ。
 ただ、過去のアルピニス゜ム的価値に基づく記録と比べると余りにも異質なため、表向きの登山史に名が刻まれるかどうかはわからない。ゆえに本書を発行したことになる。

 また、登山という狭い領域から離れてみれば、キャンバスにただその日の日付を記していく連作TodeySeriesの美術家河原温さんのコンセブチェアルアートに近いものを感じるし、東浦さんの生き方自体が一種のバフォーマンスアートだともいえよう。ほかにも観点を考えて見れば、さまざまな解釈が成り立つ。それが、東浦奈良男さんと、その営為の特質である。東浦さんが目指したもの、成しえたものが、単なる登山の記録止まるものでないことは、本書を読了された方ならおわかりだろう。
 東浦さんは簡単にわからせてはくれない。聖人と称えようとすれば俗的な面も見せ、感情を表に出さぬ鉄仮面の下に豊かな感激と信念を秘め、冷徹なようでいて家族への愛情に満ちている。
 捉えどころの疑問を遺して、この巨人は遠い山へと旅立ちされた。

読者の反応
 著者は、答えを探す。なぜここまで毎日山登りをするのか。?
 たとえひき逃げにあっても、妻が倒れても。
 そして一万日の記録が途絶えた先に著者は答えを見つける。
 そこには著者と取材対象者との微妙な距離感をもって伝わってくる。
 そして著者のあとがきを読んで違和感が残る。
 なぜ?と
 たけど、最後に雑誌編集長の追悼文があるが、
 そこで全ての疑問がふっと理解出来て感動につながる。
 この本に関して編集者・著者の東浦氏に対しての尊敬の念が最後の一行に詰まっている。

 202181日、朝熊ケ岳登山口にある東屋にこの「信念」本を置かせていただきました。
 朝熊ケ岳を登山される方は、ぜひこの本を読んでいただきたいと思います。


山と渓谷2013年11号
  朝熊ケ岳をこよなく愛し3000回も朝熊山へ登頂した東浦奈良男さんが死んでから2年近くなってきました。(2011年12月死去86才)
 連続登山1万回はかなわず夢に終わりました。
 その節目節目で「山と渓谷」本に登場していましたが、2013年11月号にも記事が載っていました。



 日時 2012年8月26日(土)
  
  地元の朝熊ケ岳など毎日連続登山に挑戦していた。小俣町の東浦奈良男さんが、2011年12月86才で亡くなられた。
 本日の中日新聞に東浦さんの山歩きをしていときの写真展が小俣図書館で開催されるという記事を見て早速駆けつけました。
 展示作品は、東浦さんが亡くなる五年前から登山の同行取材していた東京のフリーライター吉田智彦氏が撮った作品で30点展示されていました。
 元気に朝熊け岳へ登られていた頃の写真もありました。22町道、鈴を鳴らして歩いていました 近寄ると毎度毎度「やぁどうも」という挨拶でした。懐かしい。 
 左、白猪山で9千日登山達成したときの俳句。
「のみが見ている」ーー上手いなぁ。俳人だ。それに襖に書かれた富士山の絵も素敵だ。絵の才能も持ち合わせている。



 「山と渓谷2012年4月号」に掲載された東浦奈良男さんの記事。

「山と渓谷2012年4月号」

2012年3月17日 (土) 鎮魂
 東浦奈良男さんが2011年12月6日に亡くなられた。とても信じられなかった。
 一万回連続登山は必ず達成してくれるものと思っていたので本当に驚いた。
 連続記録は、9738日と山渓に書かれている。
 ギネスに乗ってもおかしくない大記録です。今は、本当にお疲れさま安らかにお眠りください。

 私が、最後にお合いたしのが2011年春のこと。市内の蓮隋山(114m)に登られた帰り回お会いしたが、体がかなり衰弱されていたので言葉もかけられなかった。
 初めてお合いしたのは、今から25年位前、東浦さんが朝熊ケ岳へ毎日登山していた頃である。
 その時、聞かされた言葉が今でも忘れられぬ。
 食事は、朝と夕の2食のみ。水や食べ物は待たず歩いておられた。
 リュックの中味は、雨具と日記帳だけである。雨具といっても骨のない笠である。云わば風呂敷みたいなもの。
 水を呑まなくて喉が渇きませんかと聞いたら、体が要求しない。原点は、比叡山千日回峰である。修行すれば水は呑まなくて歩けるということらしい。
 一山登るごとに俳句を書いていた。登った山と日付と句が日記帳に記されていた。その帳面に名前と住所と勤務先をサインしてくれとーー頼まれた。私も一語「朝熊の仙人にあえて疲れなし」と書いてサインした。
 リンリンと鈴を鳴らして歩いたので遠くからでも歩いてくるのが分かった。右のはがきは東浦さんから平成16年3月6日貰ったものです。

 東浦奈良男さんは、富士山と朝熊ケ岳をこよなく愛し。その当時、朝熊ケ岳へは小俣町から毎日歩いて登山されていた。

 もう一人朝熊の主と云われていた東浦さん(鹿海町在住)も亡くなられた。両巨頭が同年に亡くなられたのは何か因縁みたいな感じさえする。
 でもさびしい。両東浦さんにはいろいろと楽しいお話を聞かせていただきありがとう。
 今日も沢山の人が朝熊ケ岳へ登っています。


 2012年8月25日付中日新聞

2002年1月11日付中日新聞 

2001年4月10日付中日新聞 
 

2000年 

 1987年7月27日付中日新聞