(始めに)
 エベレストを愛した登山家加藤保男は、1970年代世界で始めて単独登山に成功した。
その帰路、彼は33歳の若さでこの山に消えた。
 
 母堂が書かれた著書を見て、彼の不屈の精神に感動した。
 当時は、輸送手段がなくゴーキョへいくまでが大仕事だった。今は、ヘリコプータでベースキャンプまで荷物は届くのだから、苦労せずに準備ができる良き時代だ。
 田部井さんの写真がビューホテルに掲げてあった。
 スポンサーとサポート探しに苦労した加藤保男の写真にして欲しかった。

 いつか彼が歩いた街道の一部を辿る旅が長年の夢であったが、50歳代後半となりやっとこの夢がかなえられた。ここに「エベレスト街道旅紀行」として旅の記録をまとめた。


 この旅は、自分の体力・気力を試すチャレンジの旅でもあり、またチベット文化を知る楽しい旅でもあった。チベットでは愛くるしい子供たちに接し、貧しくても穢れのない美しい魂は、私の心に深く残った。
 最大の目的であるエベレスト展望は、何とラッキーなんだろう。雲一つない素晴らしいエベレストを長時間も見られた。山の神様に感謝したい。

日時 2000年11月3日〜9日 人数 17名 企画 アルパイン・ツァーサービス

(行程)
日付 発着地名 内       容
11月3日 関西国際空港
カトマンドゥ
午前、ツアリーダ佐藤氏と共に関西空港発
空路ネパールの首都カトマンドゥへ
11月4日 カトマンドゥ
ルクラ
バクデイ
朝、空路、ルクラ(]2880m)へ着後、シエルパ、ポータ達との合流トレッキング開始。ドゥードゥコシの谷沿いに道をバクテデインへ(2620m)
11月5日 バクデイン
ナムチェ
谷沿いの道ジヨサレへと辿りエベレスト(サガールマータ)国立公園の入園手続き後、高度差600mの坂をゆっくりと登り、シェルパの里ナムチェ(3440m)へ
11月6日 ナムチェ シヤンボチェ〜エベレストビュ〜クムジュン〜シャンボチェ〜ナムチェ
11月7日 ナムチェ.
ルクラ
ドゥードウコシ沿いの道をルクラへ戻る。
11月8日 ルクラ
カトマンドゥ
国内便でカトマンドゥへ戻る

(地図)

(11月3日)
 午前9時。ジャルウェイズ・チヤータ便JO9721便は、多くのヒマラヤ団体客の夢を乗せ関西空港を飛び立った。3日午後2時過ぎ(日本時間午後5時)無事カトマンドゥ空港に到着。天気は晴れ空気は乾いてかなり暑そう。
空港を出たとたん予期せぬ子供たちの歓迎?どの子もぎらぎらして異様な目つき、私の姿を見るや勝手にスーツケース触り「ジャバン」とかネパール語で「運んであげる」と言って話しかけて来る。「ノオノオ」と追っ払うと、チップ100円とか50ルピー(1ルピ2円)とか言って請求する。追っ払っても追っ払ってもまたハエのように追いかけてくる。「なんやこれいったいどうなつているんや」と一瞬面食らう。少し離れた広場にホテルの関係者が迎えにきていた。荷物はボロボロのワゴン車へ、私たち17人は埃だらけのマイクロバスでジャングリラ・ホテル(左の写真)に向かう。

ホテルまでは約40分位。カトマンドゥの街中を走る。バスの中から見る景色は戦後の日本を思わせるようなバラツク建てのスラムが目に付く。古いものと新しいものが混在し都市基盤の整備か出来ていないので、広い道、狭い道、曲がりくねった道、昔のままの道路を(信号もないセンターラインも引かれていない多くの車がピーピーと警笛を鳴らし、黒い煙を吐きながらフルスピード走る。車の量が多いので本当に怖い。排気規制前のオンボロ車、日本製が多い。

街中もの凄い埃が充満している。夕方からは特にひどい。後日カトマンドゥの市内見学に行くが、タオルをあてて息をするがそれでも口の中に入ってくる。息をするのも苦痛だ。公害のない緑多き伊勢市から来るとこの環境は想像もしなかった最悪。帰国してからものどが荒れ全治するまで1週間もかかった。

(11月4日)
午前5時30分モーニングコール。朝食6時30分。8時カトマンドゥ空港へ向かってホテルを出発。天気が良いのでルクラ行きの飛行機は飛ぶことになった。カトマンドゥ飛行場は、出発時間も表示されていないし、また場内放送も一切されない。特に国内線は、天候に左右されるので、いつ飛行機が出るか出ないか全く分からない。その情報もないので、早めに待合室へ来て係員の様子を見て判断することになる。
 
 何時間またされようが、いらいらは禁物。己が損するだけ。要はビスタリーである。(ネパール語で「ゆっくり調」という意味この国の生活習慣)いよいよルクラ行きの改札が始まり、バスで飛行機の側に来る。小型のセスナ機(左の写真)を見て心細くなる。
び立つと直ぐに美人のスチュアデスから飴玉を貰い少々不安も遠のく。ルクラへ近づくにつれ谷が迫り気流の関係で飛行機がゆらゆら、上がったり下がったりスリル満点、あちらこちらで「おぅ」という溜息が漏れる。もっと怖かったのが着陸する瞬間、でこぼこの短い滑走路をごとごとさせながらも飛行機が定位置に止まった時は思わず拍手喝采。心の中でパイロツトにお礼を言う。標高1300メートルのカトマンドゥから標高2830メートルのルクラに着く。

 ルクラは、山の斜面に出来た僅かな台地に100軒程の家が建ち並ぶ、トレツキングの基地。飛行機から少し離れた広場で私達をサポートして呉れるサーダ・シェルパ・ポータ・ボーイ・キッチン等と合流、総勢15名位か。私たちはここで軽い昼食をとる。ポータが荷物を仕分けし、バグデインへ向かって先に出発する。
 それに続いてシェルパーと私たちが続く。ドゥードゥコシの谷沿い緩い下り坂を延々と行く。途中、ゾッキョ(牛)が重い荷物を背負って行儀よく往来する。少しでもうろうろするものなら気合の鞭が飛ぶ。可愛そうな気もするが、ここはエベレストへの重要な酷道1号線このハイウエイをマロヤカに通る運搬手段。

日本ではクロネコヤマト、ここはクロウシネパールと言ったところか。バグデインへ午後4時前に着く。到着した頃から少し頭が痛くなり、高山病の始まりか。ここは標高2600メートル、先が思いやられる。持参の頭痛薬を飲んでテントの中で眠りに着く。

(11月5日)
5時テントからの目覚めだ、昨日の頭痛はおさまっていたが、無理をしてはいけないと思いツァリーダの佐藤さんにお願いし、リュックの中の重いものを、シェルパに持って貰いバグディンを出発した。ドゥードゥコシを遥か下に右岸の道は、エベレスト街道の名にふさわしくしっかりした道で家畜の侵入を防ぐ石垣が延々と続く。村に入ると道は石畳になる。所々にバッテがあり店の前には休み場がある。

鼻をたらした幼児たちがあちらこちらから「こんにちわぁ」という日本語で話しかけてくる。ナマステと言うと目を輝せている。すんだ瞳が本当に可愛いい。中には裸足で歩いている者もいる。手も足も頭の髪の毛も垢だらけ、風呂も入ったこともないのだろう。(そんなものあるも訳ない。)服装もどす黒く汚れている。眼だけが笑っている。異様な姿。夜はマイナス10度にもなるのにどうして暖をとつているのだろうか、これが幸せな生活なのだろうか不幸なのか、文明の国から来た人間の余計な心配だろう。それにしても子供たちは生き生きしている。(戦後日本が貧しかった頃の子供もそうだった)子供は宝だ。

 途中登山家の野口健さんに遭遇。
 エベレストの清掃登山に来ている途中だった。数名の方がサインして貰っていた。
一瞬、世界に名を残した登山家加藤三兄弟の末っ子の加藤保男のことを思い出した。
彼は、春秋と厳寒の三期エベレスト登頂を果たし、最後、世界で始めて単独でエベレストに挑み成功、その帰路、頂上から少し下ったところで、テントごと吹き飛ばされ消息を絶った。
当時は、空からの輸送も難しく、この街道を数日歩き、暑さ寒さに耐え不屈の精神でこの街道を往来したことだろう。

母堂が書いた回顧録を読んで、彼の生き方、山哲学に惹かれ、いつかこのエベレスト街道を歩こうと思ったことが動機でもある。

 ジョサレのチェックポストで、バーミッションの点検を受ける。(上の写真)ライフルを持った兵士が数名にこにこしながら見つめている。

 中には記念写真の要請に応じて一緒に撮っているものもいる。何故、ストッブされているのか良く分からない。ツアリーダ佐藤さんの説明では、ここから先へ行くには(国立公園となつているので)入園料みたいなものを払わないと通行許可がおりないとのこと。長い時間待たされてようやく許可が出てこの関所を通ると、間もなく吊橋が見える川原で昼食。小麦粉のようなものを焼いた食べ物(名前は忘れた)が美味しかった。食事を1時間余とり出発


吊橋欄干にタルタア(経文を刷りこんだ白い布旗)のはた
めく長い吊橋を何回もわたる。
 前方高い所の吊橋を渡るとナムチェ・バザールまで標高差700メートルを一気に登り詰める。この登りがコース中最大の難所である。ハア・スウ、ハア・スウの2呼吸で急坂をこなす。
 3時間余夕闇迫る、ナムチェ・バザール(3446メートル)の街に到着した。入口にチョルテン(塔)がある。チョルテンには、経文も刻まれている。

ナムチェの入口にチョルテン(塔)には経文が刻まれていた。
れを抜ける坂道をあがって行くとバザール(市場)へ出る。街は、急な斜面に半円をを描いて階段状に家並みが並んでいる。視界が広く、深いボテ・コシの谷を前にコンクデ(6187メートル)が大きくはだかってナムチェの街を抱き込むように聳え立つ。さすが周辺のバザールの街,多くの小売店が軒を並べている。品物は、生活用品・みやげもの等雑多て゜ある。数量はかにり豊富。どれも埃ぽい。我々のテントは街の中央部の広場となった。

バザールは間もなく閉鎖の時間となるので、屋外の広場にある市場へと出かけた。Sさんから買い物の仕方を教えて貰った。電卓で買う値段を決めてやりとりして決めるのだが、この駆け引きを上手くやらないと高いものを掴まされる。正当な値段がいくらなのか困った。食事の前、中年の日本人女性が訪ねてきた。この暗闇で自分のテントの居場所が分からないとのこと。幸いサーダの名前をメモしていたので、シェルパーのドルジさんと一緒に探しに出て行った。暫くでドルジーさんが戻ってきた。

ここにきて、大阪のHさんがダウン、北海道のMさんも調子が悪そう。私とテントで一緒に過ごした東京のSさんは、少し頭が痛いといっていたので、頭痛薬を差し上げた。私は、中津川のA夫妻の励ましが効いたのか高度順応したのか頭はスッキリしていた。その中でも元気なのは大阪のMさんKさん北海道のHさん。疲れた様子が全然見られない。特に、大阪の2人はロッククライミングで鍛えた強靭な体力の持ち主。楽しい山談義を聞かせて貰う。大阪の女性は、楽天家で突込みが上手いし話題も豊富だ。頂点に達すると上沼さんに見えてくる。こりゃ失礼。
7時いよいよ夕食のメニュウが出てきた。コックが日本人向けに心を込めて調理してくれたありがたい料理である。始めに中華スープ、カレー、焼きソバのようなもの、ブロッコリー、バホル、タトバニ、リーダが持参してきたもの、最後にフルーツ等盛りだくさんである。現地の人にとっはものすごい贅沢な内容である。お代わりしてくださいとの催促。口に持ってくると香辛の効いた臭いが「ムッ」とくる。私が食べられるのは、ほんの一部「ノウサンキュウ」を繰り返すばかり、隣の席のSさんはなんでも美味しそうに食べられるのを、横目でちらりちらりと覗いていた。これを見てAさんの奥さんが日本から持ってきたレトルトのお粥を呉れたので湯をかけて食べる。

食事はいつもこのようなご馳走が続いた。スタミナ不足が心配であったが、森永製菓のビスケツトが私の体力を維持させ、カトマンドゥへ戻るまで体調はよかつた。カトマンドゥで日本料理を食べにいったが、今までの分を挽回しようとして、一気に大食いをした。これがいけなかった、ああ下痢。誰かに薬を貰い飲んだが、結局日本へ帰るまで持ち越してしまった。という訳で、私の場合、高度順応よりむしろ「胃袋をいかに現地食に順応させる」かということが課題であった。

さて、ナムチェの夜となると、急に温度が下がり寒くなる。昼間との寒暖差35度前後である。経験したことのない気温である。この差は余りにも大きい。食事が済んだら寝袋の中に入らないと風邪をひいてしまう。あちこちから「ごぽんごぽん」という咳の声が聞こえる。テントの中から満天の星を見つめる。槍ガ岳や仙丈岳小屋から満天の星を見たことがあるが、明るさが全然違う。やっぱりヒマラヤは凄いなぁと思いながら眠りにつく。

こんな素晴らしい所なのだが、一つ気になったのが、それは清流であると思っていたナムチェの川(ドゥードゥコシの上流)が、生活排水の垂れ流しで大変汚れていることである。僅か100軒ほどの世帯でこれほどよごれているとは、本当に驚きだ。カトマンドゥの川も悪臭で汚染されていた。このヒマラヤの奥にまで人間の住む所は、汚れているのである。地球の環境問題がいかに深刻な状況であるかとここに来て思い知らされた。


(11月6日)
ナムチェの村へようこその看板を見て村の中に入る
ナムチェ・バザール(3440メートル)はエベレストの南麓を流れるドゥードゥコシに面した急斜面を張り付くように、同じ造りの家が100軒ばかりあるだけの村落である。遠くから眺めると白壁の家と石垣で囲んだ畑が美しく見え、部落の背景にはコンクデ(6187メートル)タムセルク(6018メートル)などが聳えている。ヒマラヤの仙境といった景色である
 村落に入るとヤクの放牧とジャガイモ作りだけの貧しい生活である。ナムチェがヒマラヤ登山者に有名になったのは、シェルパの故郷ソロクンプの中心地で、チベットとネパールの交易路の要衝であり、エベレスト登山遠征隊が高所用ポータと交替するための基地でもある。

ナムチェの街並み

コンクデ(標高6187m)
午前4時。まだ暗闇の中 快晴に恵まれたナムチェの朝。太陽は谷側のコンクデを輝かせその後、街に目覚めの時を知らせる。気温マイナス13度。風はないが肌が刺すように冷たい。いよいよエベレストを見るためのトレツキングが始まる。

午前4時過ぎ暗闇のナムチェテント広場から見た左ヌプラ(5885m)右コンククディ(6187m)

クムジュン・ヒル
クムジュンヒルに向かって登り始めるこは標高4000メートルに近い。何度か息を整える。後ろからボーイの歌うネパール民謡「レッサム・ピリリ」の声が響く、この元気出しリズムに合わせて歩くと、どこからとなく力が沸いて来る不思議な歌だ「レッサム・ピリリ」」「レッサム・ピリリ」と歌いながら午前8時、ヒルに着く。。クムジュンヒルへの案内板。この辺りからエベレストが見え始める。

クムジュン・ヒル
左、中央2人はボーイとシェルパ。中、中津川のAさん夫妻と私。右、ツアリーダの佐藤さん
この廻り一帯は絵葉書を見ているような白い山々に囲まれている。。映画シェンに出てくるような光景だ。こんな青い空も見たことがない。雲ひとつない蒼空の遥か彼方に世界一位と二位の高い山が聳え立つーーー凄い景色だ。心臓が止まりそうなこの感激に全員が、子供のようにはしゃいだ。ツアリーダの話では、こんな良い天気はめったに出会えない。、エベレスト展望トレッキングは、エべレストが見えないのが常識とか。

私たちは、なんとラッキなことなんだろう、山の神様に感謝したい。今まで不安だったがトレッキングが、この光景を見て一挙に解消した。

【エベレスト展望】
左からエベレスト(8848m)ローツェ(8501m)手前がアマ・ダブラム(6856m)
中央エベレスト(8848m) 右ローツェ(8501m

エベレストビュ・ホテル
8時過ぎ、エベレストビュホテルに向かう。尾根をぐんぐんと登って行くと学校へ行く子供達が何か喋りながら、いとも簡単に我々を追い越して行く。左側に滑走路が見えヘリコプターが飛んでいるのが見える。誰かが言った。この滑走路はエベレストビュホテルが出来た時に開通した。ビュホテルの支配人は日本女性であるとのこと。正確な時間は分からないが、10時過ぎにエベレストビュホテル(標高3880メートル)に着く。建物は、ヨーロッパ風で庭園が石造りで松とシャクナゲが調和していた。ホテルの中に入ると写真が3枚張られていた。1枚は青いヒマラヤ。ケシの花、後の2枚は記憶していないがエベレストの写真であったように思う。

とにかく素晴らしい写真である。
写真の上に女性登山家の田部井淳子さんのサインもあった。ホテルの中を抜けるとテラスがあり、コーヒを飲みながらエベレストを見ることが出来る。日本の山雑誌や旅行ガイド等に出てくるお馴染みの景色である。今日もそれと同じ景色が見え本当にラッキーであった。
帰りは、反対側の斜面を上り下りしながらナムチェの街に降りていく道。
左からドルジー、筆者、ボーイ、ポータ

ナムチェヘ下る
帰りは、反対側の斜面を上り下りしながらナムチェの街へ。

途中ミイラ館(正式の名ではない)に立ち寄る。左、冷凍庫に保存されたミイラ

【役所と学校】
 しばらく行くと学校も見えてきた。子供たちと先生が道端で勉強をしている。絵を描いているのか。少し立ち止まり話をしょうとしたが。言葉が通じないので手振りで子供のカバンの中を見せてもらったが副読本と帳面と鉛筆が入っていた。
 最低の学用品だがここへ来られる子供たちは、お金のある裕福の子供しか来られない。子供たちの服装も身奇麗なものを着ていた。
 今から20年前、伊勢市教育委員へ勤務していた頃、市内の学校から「ネパールの子に学用品を送ろう」ということで集めた品物を、私がネパール大使館に届けたことがあるので、先生に聞いて見ようと思ったが、−−これ以上邪魔をしてはいけないと思い早々に立ち去った。
  この辺の学校は、世界で始めてエベレスト登頂に成功したイギリスの登山家ヒラリー卿が、「この貧しい子供達のため学校を建てたい」との希望で、彼の遺産で学校を建てたことを後で知った。
上、役所 。右、チョルテンがいかめしく建っている

服装は貧しそうだが、心は明るい子供達

(11月7日)
 (ルクラへ戻る日)午前5時起床、6時朝食、7時出発。
 ルクラまで約15キロメートル大変きつい行程だ。リーダのSさんからゆっくり歩きますから頑張ってくださいと激励の声が飛ぶ。ビスタリービスタリーと叫び出発する。緩い下りの道を順調に歩きバグ゛ティンへ12時過ぎ到着。昼食のため1時間ほど休み出発する。これからルクラまで8キロメートルできつい上り坂が続く問題の坂だ。
 ゾッキョもあまりきついので立ち往生している。背中両側に我々の設営テントや食糧を背負っており物凄い重量である、鞭に打たれる姿を見ていると動物虐待そのものだ。涙が出て来る。しかし、牛のお陰で我々のようなものでもトレッキングが出来ると思うと複雑な心境だ。

 私の後に付き切りのボーイの「ベッサムピリリー」の唄も冴える。それに歩調を会わせてペースを刻む。休憩の度にボーイにお菓子を分けると嬉しそうに食べる。明るくて素朴で表情も豊かである。日本の子供なら振り向きもしないものだが、貧しい国の子供たちには、貴重な食べ物。おまけに行儀が良いのにはびっくりさせられる。(戦後の日本もこうであったように思う。今や、家庭・学校の崩壊、未成年の殺人等暗いニュースが連日報道されているが、この国には遠い国の話だ)10時間以上も歩いただろうか。疲労困憊になった頃、夕闇のルクラに到着。


 ポータは少し遅れて到着。
 テントを設営して貰い作業終了。この凄い坂を何時間も重い荷物を持ち歩き続けるのは仕事とはいえ本当に辛いだろう。ご苦労さん感謝の気持ちで一杯だ。遅い夕食を済ませて、いよいよ彼らとお別れの時が来た。ネパールの唄と踊りを披露してくれることになった。例の「レツサムピリリー」である。太鼓でリズムをとりながら全員が歌う。

 シェルパーのドルシーさんキッチンボーイ等が踊りだす。手をゆっくりとしなやかにくねらせながら、下半身は速く、激しいステップを踏む。その格好は雄大な渓谷を舞う鳥の姿を連想させる。相方が入ると、互いに背中をこすり合わせるように舞う。フレーズの終わりに「レッサムピリリー」「レッサムピリリー」・・・・・とリフレインが入る。だんだんと盛り上がりリーダの佐藤さんが舞う。それにつられて、一人二人と踊りに参加し、最後は全員で「レッサムピリリー」「レッサムピリリー」と大声で歌い踊りまくった。
 何といっても迫力のあったのは大阪の2人(MさんKさん)河内節「レッサムピリリー」である。演技賞をあげたいほどの熱演に本家のドルジィさんも拍手喝采。もう1時間以上も踊り続けただろうか。いよいよお別れの時が来た。

 サーダたちにお礼の握手。握手。本当に楽しい旅でした。
 彼らは白い歯を出しダンネーバード・ダンネーバード(さようなら)といって別れを惜しんだ。
別れ際、サーダから記念に、首にかける白い布(民族衣装)を全員にただいた。自分の部屋に飾る。これを見るたびに当時の楽しかった思い出が蘇ってくる。

訂正 (この旅を企画したアルパインツァー鰍ゥら説明文の誤りを(2012.7.3)ご指摘頂きました。)
    内容は、下記のとおりです。訂正させていただきます。
 文中  途中のミイラ館(正式の名ではない)に立ち寄る。左、冷蔵庫に保存されたミイラーーー
   
  ●  これは、クムジュン・ゴンパ(=クムジュン寺)に保存されている。
"イエティ"の頭部(と言われているものです)。
 ほんとうに伝説の動物イエティ(雪男)なのか、それとも単純に熊やヤクなのか現代の技術ならば解析するのは難しくないのでしょうけれど、村の人々が昔々から拝んでいる大切なものなので、村から持ち出すことはできないようです。
 むしろ「それが本物かどうか」を解明するより、土地の信仰心を大切にしたい気もします。

 ついでに
 同じクムジュン村で訪れた学校(ヒラリースクール)は、ヒラリー喞の遺産ではなく、ご存命のうちに建設されております。エベレスト初登頂は1985年、ヒラリースクールの建設は、1960年、ヒラリー喞の逝去は2008年1月です。
 なお、エベレスト初登頂に成功したイギリス人登山家ですが、実際に登頂したヒラリー喞は、実はニュージランド人です。
 逝去された際、ニュジランドでは国葬されたそうです。

(11月8日)
午前5時起床。5時30分朝食。6時ルクラ飛行場へ
ダンネバード・ダンネバードの署名
9時ルクラ飛行場出発。10時ラメダ飛行場に到着。 
15時頃カトマントドゥに向け出発。
16時頃カトマントドゥ空港に到着。
16時頃カトマントドゥ空港に到着。
17時頃シャングリラ・ホテル到着。
夜   エベレストテイハウスで夕食。

(11月9日) カトマンドウ市内見学
【ネパール最大のストゥーバ仏塔・ボーダナート寺院】

【 左、パシュバティナート寺院】
ヴァ神を祀るネパール最大のヒンズー寺院。本堂にはヒンズー教徒以外はは入れないそうです。
下右、バグマティ川は、インドのガンジス河と合流する聖なる川です。

【左、火葬場。右、宮殿付近。下、日本料理店
 聖なる川、バグマティ川岸はヒンズ教徒の火葬場となっている。遺体を焼いている最中なので、煙が上がっています。バグマティ川の水は、黄土色に濁り汚れているが、ヒンズ教徒にとっては聖なる川です。彼らはこの川で沐浴し、食器を洗い、洗濯もしていた。

ヒマラヤ遊覧飛行
飛行料金20000円。
 小さな飛行機なのでかなり揺れるので飛行中は不安でした。
 それでも世界ナンバワンとナンバツゥの山を見え興奮しました。8000m級の山が幾つか見えました。

カトマンドゥ空港】

(2000年11月10日)
カトマンドゥ空港でのお別れ