●はじめに |
1980年代、NHKテレビがシルクロードを放映し大反響を呼んだ。アジアとヨーロッパ東西の文化交流の大動脈として、世界の文明を育んだ絹の道である。喜多郎のテーマ曲も素晴らしかった。20年後、2006年「新シルクロード」としてNHKテレビが再び放映した。テレビで見たシルクロードの映像と語りが余りにも強烈であった。「莫高窟と兵馬傭」は、世界文化遺産の中でも世界最高の傑作ではなかろうか。テレビに刺激されチャンスがあればシルクロードへ行こうと決めていた。2006年3月、新関西ハイキングリーダTさん(大阪在住)から電話でお誘いを受けたので夫婦で参加することにした。企画は、海外の山行きに信頼のあるアルパインツァー㈱である。 なお、ホームページ作成にあたっては現地で購入した「敦煌とシルクロード」(陳那准著・莫高窟研究院)の記述を参考に書かせてもらった。 ①敦煌→ 敦煌駅から敦煌市まで200km。大砂漠の1本の道が延々と伸びている。茫漠たる流砂の海、遥か遠く長い砂の道、ここは想像を超える世界。シルクロードの旅人たちは、「目の前には生きる物の姿もなく、空に飛ぶ鳥もなく、唯あるのは死人の枯骨を標識とするという」過酷な自然を目の前にして彼らはどのような思いで、その一歩を踏み出していったのだろうか。ラクダが座り込めば、自分たちの人生も終わる。命がけの旅、行き倒れの旅でもあったろう。漢の時代(BC111年)には、西域に対する最前線の軍事基地として、東西の交易の十字路として重要な役割を担っていた。異民族の吐蕃(とばん)、西夏(せいか)に征服され幾度も興亡の歴史を、繰り返し戦火にさらされた。いつの時代も人と物の行き交い東西の交易によって文化が花開いた街である。敦煌の二字は、敦は大であり、煌は盛んである。「大きく盛んな街」という意である。今の街は、18世紀初めの清代に造られたもので、古代の敦煌とは場所が異なる。絹とともに養蚕技術もこの道へ通って西へ行き、仏教初め西の文化はここから入り、長安(西安)そして東へ日本へと渡っていった。街には多くの旅籠や店が軒を連ね、バザールが立つ。ラクダやロバも人も溢れていた。その集大成は、莫高窟である。「砂漠の大画廊」の名にふさわしい世界の大文化遺産。 膨大な窟の中から、日本の正倉院にある仏像や壁画を見られるのだろうか。 ②西安・兵馬傭→前漢や唐の時代、首都の長安(現西安)から、西へ中央アジアとヨーロッパを結ぶ交流の道があり、主に絹織物が輸出されたので、ヨーロッパの歴史学者がシルクロードと呼んだ。古代から英雄やヒロインを輩出し、多くの物語ができた。長安の最盛期は唐代で、社会経済が大きく発展したことにより、国際的な貿易の集散地となり、外国人が行き交うメトロポリスとして殷賑を極めた。長安は空前の繁栄をもたらし人口80万を上回り文化と政治の中心であった。大興城を基礎として長安城に拡張された。兵馬傭の発見は、世界を震撼させた。秦の兵馬傭は「20世紀の重大な考古発見の一つ」世界八番目の奇跡といわれた。秦の兵馬俑抗は1974年に現地の農民が井戸堀をした時に偶然発見した。傭は、1人1人は実に仔細で精巧にできている。2000年以上前に造った技術とは思えない。今も地下のどこかで傭を造っているのではないかと思うほど優秀な作品である。 |
企画名 | ボコタ展望ハイクとシルクロード8日の旅 | 企画 | アルパインツァーサービス㈱ |
主な旅先 | 天地・ ウイグル・敦煌・西安(中国) | 出国空港 | 関西国際空港 |
日程 | 2006年6月15日~6月22日 | 入国空港 | 関西国際空港 |
参加人数 | 12名(新関西ハイキング)+添乗員 | 添乗員 | アルパインツァ-㈱森中あゆみ |
日 時 | 11日間の 行程 (赤色前半・黄色後半) | ホテル名 |
6月15日 | 関西空港発9:55 ca162 北京着12:10北京発19:20 cz6902 ウルムチ空港着23:10ホテル着23:40 新彊台北商務酒店へ宿泊 |
(15日新彊台北商務酒店) (16日17日天地・固定パオ) (18日夜行列車) (19日・20日敦煌国際大酒店)(21日皇城賓館) |
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6月16日 | 新彊台北商務酒店発10:40 紅山10:55~12:30 ウネグチ博物館へ立ち寄る。 専用車で天池湖畔へ15:30 天池遊覧1時間 固定パオへ宿泊19:30 |
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6月17日 | 固定パオ発8:00 天池船着場発8:40 奥天地着9:00(馬で4回川を渡る) 川岸の登山口着10:35 天山山脈ボゴダ展望地(標高2700メートル辺り)の花園12:10~13:00 天池船着場着15:20 夕食19:30 固定パオ宿泊22:30 |
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6月18日 | 固定パオ発8:00 バスに乗り継ぎ専用車でウルムチに戻る。博物館など市内見学。 ホテルでシャワーを浴びる。19時44分発の夜行列車に乗り敦煌 |
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6月19日 | 敦煌駅8:30着。ホテルで朝食。 午後敦煌莫高窟見学。見学した窟は、96、130、148、172、173、237、249番。敦煌国際大酒店へ宿泊 |
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6月20日 | 敦煌市付近の終日観光。 午前5時ホテル出発。 鳴沙山、月牙泉見学 午後、玉門関、陽関、魔鬼城を見学。敦煌国際大酒店へ宿泊 |
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6月21日 | 午前、敦煌空港が突然閉鎖されたため、絨毯工場と敦煌資料館見学。 夕方になって空港閉鎖が解除され、西安へ移動。皇城賓館へ宿泊 |
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6月22日 | 午前7時ホテル出発。 兵馬俑見学(8:00~940) 敦煌空港(12:20) 北京空港(13:40~18:10) 関西空港(21:10) |
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中国・天山山脈方面 |
6月15日曇り | 1日目→関西空港発/北京空港着発/ウルムチ着 |
<概要> |
関西空港9時55分発。北京空港12時10分着。北京空港19時20分発。北京空港で国内線に乗り換える。ウルムチ行きの搭乗口が突然変更されたので、階段を下り「A06」に来る。出発時間をかなり過ぎても動きがないので変だなぁと思っていたら、添乗員から飛行機のタイヤがパンクしたのでホテルへ待機するとの説明あり。結局、7時間も待たされることになった。某情報通によると、タイヤの在庫が国内にないので日本から取り寄せているとのこと。予定より大幅に遅れ夜中の23時10分ウルムチ空港に到着した。6月21日にも敦煌空港が突然閉鎖された。「何で閉鎖されたのか。何時回復するのやら。」分からず不安な気持ちになる。後刻、添乗員から軍事演習で飛行禁止となったらしいとの話を聞く。何時間も待たされ予定の行動はキャンセルとなった。一党独裁国家は、人に迷惑をかけても何の釈明もしないし誤ることもない。中国人の民はダンマリ国に忠誠?。民主国家から来た人間には理解しがたい。 |
●北京空港国内線でトラブル発生 |
北京国際空港で7時間待たされる。 |
●深夜、ウルムチへ着く。 |
北京空港のトラブルで、予定より7時間遅れ、深夜(23時40分)ホテルへ到着した。 |
6月16日曇り | 2日目→ウルムチ/ネグチ博物館/天池湖天池遊覧 |
<概要> |
16日、ウルムチから90キロ先の天池(標高1980メートル)へ。船で遊覧したパオでテント泊。世界で最も内陸に位置する新疆ウイグル自治区は、中国最大の面積である。ウルムチは、同自治区の政治・経済・文化の中心地で総面積1万3636km3。人口161万人。漢族、ウイグル族、カザフ族、モンゴール族、回教などが混在し、それぞれの文化を持って発展してきた。従って言葉も様々である。これから行く先々(ウルムチから敦煌・西安へと)で、現地ガイドが代わる代わるに登場し(6人ほど)案内してくれた。ウルムチは、シルクロードのイメージとは異なり高層ビルが聳える近代都市には驚いた。 このウルムチへ2日間滞在することになった。中国政府は、漢族を住まわせ同化をさせようという政策をとっている。現状は、民族間での摩擦が多発し緊張状態にあるとのこと。トラブルに巻き込まれないよう注意してくだざいと現地ガイドは話す。 |
●ウルムチ・市内が一望できる紅山公園へ |
ウルムチの中心地にある紅山公園。面積20万m3。標高934.4メートル。別名虎頭山という。ここからウルムチの市内が一望でき市民の憩いの場てある。 |
紅山公園は、1884年に岩肌の山で木が生えていなかったので人工的に植樹をし公園に整備された。上部に岩肌の褐色をした鎮龍塔が建つ左、中央部は人民公園。右、高速道路は、ウルムチ河の氷河だった。とのガイドから説明であった。 |
左、鎮龍塔。 この塔は、ウルムチ河の龍を鎮めるため(中国では洪水は龍が暴れることで起こると信じられていた。)建てられたもの。 |
●ウルムチから90キロ奥にある天池へ行く街道。天地は、中国のスイスと称される。 |
●聖なる山ボゴダ峰(5445メートル)の中腹にある天池。 |
天池は、標高1980メートル。四方を緑豊かな針葉樹林に囲まれた半月形の湖長さ3400m 幅1950m 深さ105m |
●天池の固定パオに2日泊まる |
天池から坂道を2キロほど行ったところに固定パオがある。バオは7戸あり中に入ると、かなり広い8人程度なら十分停まれる。夜は、満天の星が光り昼間のように明るい。トイレは、草原を300メートルほど歩くいたところにある。建物は、コンクリート造りの吹きさらし。便壷は深くて垂れ流しで汚い。文明人には尻込みをしたくなるが、これでもないよりましだ。トイレへ行くにも楽しいが、星が見えないと恐怖の道でもある。 |
標高2千メートル。夜と昼との温度差が大きく暖房も利かず、寝具も粗末なもので寒くてなかなか寝つけず寝袋が欲しいと思った。トイレは、(左の写真)一番奥の建物。背景は、天山山脈。下、パオの内部。 |
6月17日晴 | 3日目ボゴダ峰展望ハイク |
<概要> |
17日は、天山山脈の聖なる山ボゴダ峰(5445メートル)の中腹へトレッキング。午前5時、青い空がひろがり美しい三角推をしたボゴダが顔を出した。朝食後、トレッキング開始。天地を船で渡り、岸辺に来たら現地ガイド4人が馬に乗り待っていた。冷たく流の早い川を馬で4回渡り川岸に上がる。岸辺から700mほど登った地点がボコダの展望地。ボコダは、霞で見えなかったが、高山の花が沢山咲いていた。天池のバオに戻り夕食後、現地の民族舞踊を見学し寝床に入る。 |
●早朝、宿泊地のパオからボゴダ峰が見えた。 |
本日と翌日の早朝、中央奥に万年雪のボゴダ峰(5445メートル)が見えた。ボゴダは、前衛の山に阻まれ見る角度が狭いが恰好のよい三角錐をしていた。 |
●朝食はプレハブの食堂で |
顔を洗うのにヤカンで沸かした湯で歯磨きや顔を洗うキャンプ地と同じである。(上右)朝食はプレハブの食堂でとる |
●天池,で船に乗り岸辺の登山口へ |
左、現地ガイドとお馬さんがお迎えです。ウルムチのガイドも一緒です。 |
多くの民俗が混成し言葉も風習も違うのでそれぞれ地元の人が来るようです。 |
●冷たい激流を馬で渡る。 |
●この手前で馬乗りはお終い |
川が増水していたので馬で4回乗り越し川岸に上がる。展望地まで700mほど登る。 |
●上流に来る |
●丸木橋を渡る |
●花の楽園 |
ボゴダ展望地に到着。万年雪の天山山脈が迫って来たか゜ボゴダは見えなかった。ここは、高山の花が群生する花園でした。下、関西新ハイキング参加者全員。後列、右から2番目が「いせ人の山楽誌」管理者 |
●花の楽園に咲いていた花 |
●中国最奥地のウルムチから100キロ近くも離れた天山山脈の辺境です。 |
●帰路 |
川幅の広い河原に来る。 |
●出発地の天池に戻って来た |
上左、こんな辺境にも人が住んでいたのに驚き。ホロを被せたような家で貧しそう。馬に乗った現地ガイドともここでお別れ。日本語の上手いツアーガイド(下段右端)も言葉が通じないらしい。仲介人がいたようだ。 |
●パオに戻り夕食後、民俗舞踊を見学 |
天池へ戻り、2キロほど歩いて宿泊地のパオへ着く。夕食後、ウルムチの民俗舞踊見学。夜は、満天の星で懐中電灯もいらないほど明るい。草原の向こうに天山山脈の白い峰も遠くに見えた。 |
我々も飛び入り参加して彼女たちと一緒に踊った。 |
6月18日晴 | 4日目ー天地/ウルムチ滞在博物館等見学/ウルムチホテル泊 |
<概要> | 18日午前8時、美しいボゴダ峰を見て専用車でウルムチへ向かう。ウルムチ昼食後、市内見学。夜行列車でシルクロードの交差点敦煌へ向かう。 |
●早朝、快晴の天地を出発。右上、ボコダ峰。下、天池から見たボゴダ峰。ここはまさに中国のスイス |
●ウイグル博物館で楼蘭美女と対面する |
1980年楼蘭で完全な状態の女体のミイラーを発見した3800年前の死体。彼女は40歳くらい身長142センチメートル。体重10.7キロ。土地の気候は、暑くて風も吹くとても乾燥しており、死体が腐乱する前に水分が蒸発するので、体の酸化が押さえられた。墓が7メートルほどの高い所にあったので水の浸入を防いだ |
●夕刻、ウルムチのバザールを見学。 |
商店街の道路中央に露天商が店を出す、夜店のバザール。品物も豊富で人出も多く活気がある。外国人と見たら価格は3倍~4倍吹っかけて来る。 |
●ウルムチの街中 |
右上、ウルムチ駅。左、ウルムチ駅周辺。 |
●夕食 |
左、ウルムチ、レストラン前。 右、夕食メニュウ。 |
●ウルムチ駅で寝台夜行列車に乗る |
ウルムチ19時40分発。空はまだまだ明るい夜行列車に乗る。欧米人老夫婦・中国イスラム系・韓国人らしい団体が乗り込んできた。ガイド付きである。中央アジア国境近くのウルムチには、いろいろな部族がいてイスラムの風習・言葉も様々ガイドなしの旅は、生きて帰れない。ウルムチ駅を出ると、線路沿いに数キロも続く貧しそうな家が再開発で次々と取壊されている。ここに住んでいた人たちは、都市のアパートにでも引っ越したのだろうか。中国は、今、近代化を進めているようで至るところで取り壊しと建設の光景が見られた。原野に突然、発電用の風車が現れる。吹きさらしなので良く回ること。自然エネルギーの風車が延々と続く。日本の技術提供で出来たとMさんが云っていた。荒涼たる大地を奥へ奥へと列車は突っ走る。厳しい強風や風雪にさらされても運転可能なのだろうか。単調な景観だが、見飽きることはないのが不思議だ。砂丘の向こうに建設中の高速道路も見えた。地平線の遥か彼方に大きな夕日が沈むのを見てグリーン車の中に入る。 |
●寝台特急グリーン車 |
ドイツ製の車体は、上下2段。4人がゆっくりと寝られる豪華な室内である。細かい所にも居住性が重んじられドア鍵を開けるにもコツがある。思いきり引いてから再度小さく引く。何度かやっているうちに慣れるが、夜中トイレを行くとガチャガチャとあちらの方からも音が聞こえる。 停車する度に若い女の乗務員が見回りにくる。トイレと前の列車の扉に鍵をかける。列車が出ると鍵をあける。何ぜ鍵をかけるのかと仲間に聞いたら停車中に乗り込んでくるやから者がいるとか。それタダ乗り防止?。停車中(15分くらい)は、手洗いやトイレは我慢である。乗務員に言葉をかけてもアゴでしゃくられサービス精神全然なし。この国のエリート達は、足を踏んづけても絶対にゴメンとはいわない、気位の高い公務員は、何様族ですか。お休みタイムになったので照明を消す。ロングレールは振動も余り感じさせない。時速60キロくらいのスピードは、適当な揺れをともない疲れた体を深い眠りにつかせる。 |
●風と砂の天上に日の出を見る。太陽は、ドエラクオオキイ。 |
間もなく日の出だ。砂丘の大地から光が射す。 雄大で壮観な眺め。さすが、中国は広い大地だ。 |
●敦煌駅近し。シルクロード(キタロウ)テーマ曲にビッタシの風景 |
暗闇から目覚めると美しい砂丘が目の前に展開する。車窓からラクダの隊列が数頭見える。シルクロード(キタロウ)テーマ曲のイメージにぴったしの光景 間もなく敦煌駅に着くと添乗員が言う。駅からあのテーマ曲を流して欲しいものだ。 |
6月19日晴 | 5日目ー敦煌駅/敦煌市/莫高窟見学 |
<概要> | ゴビ灘を疾風する。(ゴビ砂漠と間違われやすい)敦煌駅(柳園鎮)から敦煌市まで何と200キロも離れている。駅と街がこんなにも離れているとは、さすがにシルクロードは遠い遠い道なのだ。駅を離れると、直ぐゴビ灘に入る。ここから敦煌市までは、大砂漠の一本道が延々と伸びている。舗装はされているとはいえ凸凹だらけの道を猛スピードで突っ走るので 車はガタガタと揺れっぱなしで、何かに捉まっていないと頭をガンガン打つことになる。地平線が丸みを帯び、右も左も見ても地球が誕生したときのままだ。ラクダ草が、生えているところへ来てやっとトイレ休憩である。女性は、隠れるところを求めて100メートル先の方まで歩いて用を足す。 |
●敦煌駅 |
歩いて線路を横断する。駅前には、日本ではお目にかからない自転車三輪が留まっていた。 |
●レストランで朝食後、専用車で敦煌市へ移動。 |
駅近くのレストランで(左の店)朝食 ウルムチでは(イスラム教徒が多いので)羊肉が主だったが、ここは鶏肉の串指しと野菜炒め、お粥など次から次へとテーブルに運ばれてくるが、昨日まで好調だった胃の調子がおかしいので、お粥とうめぼしに切り替える。 |
●「風と砂の天上の世界」ゴビ灘を疾風する。 |
駅を離れると、直ぐゴビ灘に入る熱風が肌を刺す。心地よい風だ。遠くはシンキロ-となりゆれる。「風と砂の天上の世界だ。日差しが強烈なのでサングラスをしないと目をやられる。果てしなく遠い遠い砂の海だ。 |
●シルクロードの交差点にあたる敦煌市。 |
沙州と呼ばれる敦煌は、広大な砂漠に囲まれたオアシス都市である。両側にはオワシスを利用した野菜畑やブドウ畑が続く。ポプラ並木が一直線のところを走ると間もなく街中に入る。自転車の荷台に乗った子供が手を振る。学校へ行くのかカバンを背負っていた。 |
敦煌は、都市化が進み自分のシメージ とは、かなり違っていた。19日20日、2日敦煌国際大酒店に泊まる。レストランで昼食。その後、専用車で莫高窟を見学に出かける。夕刻には、バザールが立つ。 |
●莫高窟 |
<莫高窟>莫高窟は、鳴紗山の最東端の断崖に南北1600メートル、高さ50メートルのところにある石窟で、現在確認されているだけで、735窟。保存状態の良いものは492窟、その中で最も古いものは、北涼期(五世紀前半)に造られたものといわれ、色鮮やかな仏像や仏画が残されている。釈迦や菩薩や如来の数は、3000とも3500ともいわれ、描かれている壁画を横に並べると45キロにもなると言われている。"砂漠の大画廊"はいずれも四世紀から十四世紀の千年の間に描かれたもので、それが今日まで残されてきたのは、この地が異常乾燥地帯と関係者の努力と熱意によるものとの話し。窟の入口には寄進者の人物像が壁画として描かれていた。公開されているのは40窟で、そのうち見学できるのは10窟でガイドのセレクトにまかされている。別料金で特別窟の参観もできる。個人的には45窟を見たかったのだが、かなわなかった。事務室で主任研究員リーさんからお話しを聞いて、売店で陳那准さん編集の「敦煌とシルクロード」書籍を買う。この記事を参考に掲載させてもらった。 |
●莫高窟の入口 |
ホテルから専用車で20分ほど走ると砂漠の中に莫高窟が見えてくる |
●莫高窟入口にある飛天の像。 |
莫高窟研究院主任研究員リ先生(事務所の責任者)が、リーダTさんの後輩(神戸大学)であることから、学芸員の牛源さんから説明をして貰うことになった。 |
●莫高窟の門(左)と学芸員から説明を受ける(右) |
牛源さんは、成城大学に留学していたとのこと。美しい日本語を話される。 |
●見学した主な窟 |
第17窟、「蔵経洞」は20世紀最大の発見といわれている。 第96窟、莫高窟のシンボル九層楼。大仏殿は43mの大建築。 第130窟、唐代の様式を完備した南大仏。高さ29m顔だけで7mある。 第148窟、空前絶後の巨大な涅槃像が安置されている。(涅槃とは、永遠なる静寂という意味) 第172窟、透視画法を用いた観経変相(経変とは、経典の内容を絵画化したもの) 第249窟、敦煌最古の伏斗形窟 第428窟、総てを布施してしまうスダーナ太子。その他16、173、237窟を見学した。 |
●第17窟(下左)。第249窟(下右)。第45窟(二段目) |
第17窟、「蔵経洞」20世紀最大の発見といわれている。第249窟。敦煌最古の伏斗形窟猟をする図が簡潔で描かれて生き生きと描かれた。第45窟。拝観叶わなかった45窟。天井の中部に五代に描かれた千手千目観音像。菩薩像の高さは、1.85メートル。頭には高い髻が結ばれ面持ちは豊満で首と肘は瓔珞、腕輪などで飾られている。 |
6月20日晴 | 6日目ー敦煌周辺の終日観光。 |
<概要> |
午前/鳴沙山、月牙泉 。 午後/玉門関、陽関、魔鬼城。 |
●20日6時、鳴沙山へ |
鳴沙山は、敦煌の南約5kmに位置する。東西40km、南北20km。雷鳴のような音を出すことができるので、鳴沙山と呼ばれる。この山は、沙から累積してなったものであり、沙はとても細くて粉のようで、赤、黄、緑、白、黒の五色の沙から構成されるので五色沙と呼ばれている。沙山は日光に照らされて光り輝いていて美しい。その壮観さは、絶対普通な山がなぞらえることではない。山の頂上に登ってから、下に向かって滑り下りると沙は人体の滑り降りに従って下へ流し、ゴロゴロという音を出す。特定の地学の位置にあるので、夜に風は滑り降りた沙を上へ吹き上げて、翌日沙山は元のままに回復する。千百年以来鳴沙山はずっと減らしていない。不思議な興味深々の山。敦煌の観光八景の一つ。 |
シルクロードのイメージ。「月の砂漠を歩む隊商」を体験。中腹までラクダに乗りキャラバンをする。砂除け防止のためマスク をして出発。料金は片道30元。看板には10元とある。 外国人となると3倍?も高いようです。 |
●鳴沙山 |
●月牙泉 |
鳴沙山の谷あいに沸く三日月形の泉で、東西200m、幅50m、深さ5m漢の時代から枯れることのないオアシスである。晴れていれば、夕日によって山の大きな影が砂漠をなめるように動く、山の色が刻々と変化する月明かりの光景は幻想的。 |
●陽関 |
敦煌市内から南西へ70km。陽関は、漢の時代陽関都尉の管轄地域として軍事上極めて重要な関所であった。シルクロードの南道に通じていた。今の陽関は、昔の陽関の近くにあった。今の関城は既に存在していない。烽火台の切り株が一基残されている。高さ4.7m(左)。上からは、周囲数十里見渡せる。 |
●関所跡 |
左、塀が当時のもの。関所は復元されたもの。大量の古代遺跡があり、地面に多くの文物の不完全な切れが露出している。陽門近くで発見された多くの家屋の基礎は整然と並び、建築面積一万m2もあり広くて厚い壁の基礎は、砂漠の要塞の代用名詞になっていた。 |
●玉門関 |
敦煌県冶から西北90km。モンゴール語で「デレバンジン」四角い城という意味。玉門関は陽門と並び称される関所跡。漢代はここが国家権力が及ぶ西端である。現在の玉門関は小方盤城と呼ばれ、約25km四方に約10mの高さの城壁が残る。玉門関の近くには漢代の万里の長城が横たわっている。 |
左、玉門関右。関所の門。全体黄色の土に覆われている。ラクダの鈴が響き、隊商、使者の絶え間ない繁栄したありさまをもう見ることはない。関所の外は千里のゴビ砂漠。 |
●魔鬼城 |
敦煌市内から北西へ180km。巨大な湖が地殻変動によって湖水が干しあがり、その後風食によってできた。風の強い日はさまざまな音が聞こえ魔物がいるように感じられることからこの名がついた。 |
●雅丹地形 |
この大自然に彫刻された彫塑群の中を通行すると、自分が非常に小ポッケな存在であることを感じる。花はなく草木もなし、空を飛ぶ鳥もない。この面積が100キロメートルも達した地形に自然に数十本の南北向きの寛大な欠けた所を形成し、見たところ一本一本の広い大通りのようである。大通りの両側のそれぞれの雅丹地形は、高くて大きい巨大な古代都市ではなく巨大で不思議な迷宮のようである。この彩り豊かで美しい芸術世界は大砂漠の風と砂の傑作であり、大自然の入神のわざである。自然の芸術は偉大で壮観である。他の芸術とは比べることはできない。(陳さん書籍) |
●宿泊先のホテル(敦煌国際大酒店)へ戻る |
6月21日晴 | 7日目ー西安への移動日。 |
<概要> |
午前/敦煌飛行場閉鎖で予定を変更し敦煌市内見学。 午後/西安 |
●敦煌のホテルから見た朝の鳴沙山 |
21日午前7時30分ホテルで朝食。ロビーに集合。添乗員から敦煌空港が突然閉鎖されたので、午後から行く予定の「兵馬俑」見学は、明日に延期させて欲しい。本日は、敦煌資料館等を見学をしたいとの話を聞く。空港閉鎖の理由が何と軍事演習とか。 |
●敦煌は活気のある街 |
朝の敦煌市街。砂漠の街とは思ええないほど活気がある。敦煌国際大酒店の前を歩く親子連れ裕福ではなそうだが、皆な明るい顔をしていた。 |
●敦煌資料館 |
一階に漢代の木簡、古銭、玉器などの出土品が展示されていた。二階には、歴史装飾のガラス製品や花瓶等か展示即売もしていた。Mさん、高価なものを買った。 |
●白馬塔は古代の建築物 |
敦煌市内から南2キロメートル離れたところに古代建物の白馬塔がある。塔の主体は、高さ12メートル直径7メートル。構造は土レンガで築いた白亜の仏塔である。現在の建物は、清代に修復されたもの。塔の周りを一週すると、長生きができるとか。中間は支柱で、外は草、泥、石灰を塗って一層は八角形、二階と四階は、折れて幾重にも重なり、五階は、ハスの花弁、六階は、ふせている鉢のような、七階は相輪の形である。角ごとに大きな風鈴がかかっている。 |
4世紀の末、亀茲(現在のクチャ)の高僧鳩魔羅(クマラジーウァ)が敦煌に至ったとき、経典を担がせていた白馬が死んだため篤信の人々が馬をここに埋葬して塔を建てた。 |
●敦煌空港、7時間遅れで西安に向かう |
午後、敦煌空港閉鎖が解除されたので、 西安まで2時間余のフライトである |
●西安は、昔の長安でシルクロードの基点 |
西安の滞在は、正味半日となってしまったので、専用車で明代城壁(左、写真)を迂回することになった。現在の城壁は、唐の長安城を基礎にして、1370年~1378年にかけてレンガ積みを重ねて築かれた。その後も修理が行われ現在の姿になった。周囲の長さ14キロメートル、塀の高さ12メートル上部の幅15~18メートル面積11.8km2。城壁は、東西が長く南北に短い。東西南北4つの門には、物見櫓にあたる城楼や矢を射る窓を持つ箭楼などが建っている。 |
長安の都を六分の一の大きさを模して造られたという日本の平安京。さて西安はどんな街だろうか。平安京とダブラセながら、雨で煙る風景を車窓から眺めていた。 |
●西安は前漢や唐など多くの王朝が都とした古代都市 |
西安は、歴史が深遠で長いため、古跡の遺跡や古代墓陵、古代建築、有名な寺院、有名な景勝地がある。なかでも鐘楼と鼓楼(左写真)は西安のシンボルである。西安の旧城壁の南門(永寧門)の上に立つと、西安の旧い都市の街の様子を見下ろせ、現代の賑やかさと古代文明が一つに調和した景観が楽しめる。鐘楼は、西安城の中心にある東・西・南・北4本の大通りの交差点に位置し、明の洪武17年(1384年)に建てられた。高さ36メートル正方形で四方に弓形の通路の出入口がある。昼は鐘をたたいて時刻を知らせ、夜間には太鼓を打って時刻を知らせた。鼓楼は、(上の写真)鐘楼から西に150メートル明の洪武13年(1380年)に建てられた。高さ34メートル。鼓楼に登ると市街の景色が一望できる。 |
●今日の宿は、皇城賓館。 |
6月22日晴 | 8日目ー兵馬俑見学/敦煌空港/敦煌空港/北京/関西空港 |
<概要> |
午前兵馬俑見学後、敦煌空港から国内線で乗り継ぎ北京空港へ。 北京空港から関西空港へ帰国。 |
●兵馬楊博物館1号館' | |
博物館は、一号杭、二号杭、三号杭、秦始皇帝銅車馬陳列館から構成されており、それぞれの展示区域ではそこから出土した兵馬傭そのままの姿を見ることができる。全部で8000体。一号杭は東西230m、南北62mの範囲に5mの深さに掘られた地下杭道で総面積1万4200m2の中には 武装した実物大の人、陶製の馬の人形陶馬が兵馬傭が6000体余が38列に渡ってならんでおり、中国を統一した秦郡の威 | |
兵馬楊は、20世紀最大の発見。8000体の兵馬が埋まっていた |
●1号館の内部 |
1号館に入ったとき、約6千体の兵士たちを見てショツクで言葉を失った。兵士の顔や表情も着ている衣装も同じものは二つとない姿である。とガイドが話す。兵士がいざ出陣するかのようである。東に向かって整然と立っている。「いざ出陣」!傭は、1人1人は実に仔細で精巧にできている。2000年以上前に造った技術とは思えない。今も地下のどこかで傭を造っているのではないかと思うほど優秀な作品である。始皇帝は、死後の世界も権力を握りたいと、永遠の地下帝国を建設した。発見から30年経過しても、今だ全容の解明が出来ていない。との説明にただ唖然とするのみだった。 |
●出土品の一部 |
1号館、参加者全員の記念写真。左端、アルパインツアーガイドの森中あゆみさん。森中んの隣が、ツアリーダ、関西ハイクの塚本ん。左から五番目が管理人。 |
●あとがき |
東西文明の大動脈として偉大なる文明を開化させ育てたシルクロード。テレビからシルクロードテーマ曲(キタロウ)が、流れるたびに熱き血がたぎった旅も無事終わった。 ●感想。シルクロード(ウルムチ・敦煌)への旅は、ガイドなしでは死を意味する。ウルムチは、漢族、ウイグル族、カザフ族、モンゴール族、回教などが混在し、それぞれの文化を持って発展してきた。従って言葉も様々である。 ウルムチでは、漢族との対立が激しく緊張が走る。現地人(ウルムチ人)は、貧しい人が多い。ホテルの近くでは、我々が食べた残飯を待っている人を見受けた。人権を無視した漢族との同化政策は、世界中から非難されている。これが、共産一党独裁国家「中国」の現実だ。これから行く先々(ウルムチから敦煌・西安へと)で、現地ガイドが代わる代わるに登場し(6人ほど)た。中国は、当たり前のことが通用しない国で、思わぬトラブルに何度も巻き込まれた。その都度、アルパインの添乗員(乾さん)は、中国人現地ガイトと相談しながら携帯電話で対応に追われた。添乗員は、旅慣れているとはいえ今回の中国ツアーは冷や汗を掻いたことと思います。中国当局の事情で予定コースの一部キヤンセル等はあったが内容的には満足のいく旅ができた。某中国人ガイドは、なまりがなく標準語で話すので外人とは思えないほど日本語が喋れる。彼は、日本語習得に日本で勉強したと云っていた。日本の政治、経済も良く知っており、福祉・医療・交通・治安などは、日本がお手本といっていた。日本は、義務教育費は無料。中国は、授業料を払う。医療は高くて病院にいかず我慢している人が多い。救急車も有料で日本が羨ましいとー政府と人民はお互いに協力してやっていくと話していた。(政府批判はできないお国である。本音で語ることはできないと察する)、共産主義の理想国家は、日本ということを肌で感じた。思えば日本は、生活保護という制度もあるし貧富の格差は少いさいと思う。実態は、自由のある高度の共産国家ということか。外国を旅すると日本が一番良い国と自分はつくづく思う。それにしても、中国にも立派な人がいることも知った。外国に来ると多くの国は、生水が飲めないのでミネラルウオータということにる。特に、中国の水は(日本人には)最悪である。ホテルの水も沸騰した湯をさまして歯磨きをする。食べ物は、メニュウも量も豊富で食べきれない。だが、ウルムチでは私たちの食べた残飯を待っている人がいた。衣服等もボロボロで貧富の差を感じた。人権弾圧などいろいろと云われているが、ウルムチに平和がくることを祈りたい。朝から油物で日本人は、胃腸を壊しやすい。時折、お粥も出てくるので梅干を持参すると良い。一番嫌なのは、トイレ汚い臭いこと。水の出も悪くおまけにペーパもなし。北京国際空港でさえ褒められものではなかった。 ●今回の旅で特に印象に残った事項。ウルムチ博物館で3800年前の「桜蘭美女」と対面。・ウルムチの現地人と中国(漢族)との摩擦を肌で感じた。 ・天山山脈ボゴダ峰の美しい万年雪とお花畑へ、河岸まで馬に乗る。 ・天池でパオに二泊、満天の星が見えた。・夜行列車で見たゴビ砂漠の夕日は素晴らしい。・シルクロード、荒涼たる熱砂の大地に立つことができた。・鳴沙山の沙が美しいラクダ「月の隊商」を経験した。。「砂漠の大画廊」莫高窟と兵馬俑は、最高の世界遺産だ ・心臓が高鳴った兵馬俑の凄さに言葉なし。・中国人ガイドから本音の中国事情を聞かせてもらった。 ●最後に衝撃の旅、参加者の半分以上の人が下痢で苦しみました。外国の食文化等も改めて知りました。参加者の皆様いろいろとお世話になり有難うご゛さいました。当時、お世話になった新関西ハイキングリーダ塚元さん(大阪市在住)が、昨年訃報を知り痛恨の極みです。 ご冥福をお祈りします。このホームページは、2022年11月リニュアルあるしました。 |